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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

ルームメイト 3

 卵や牛肉の特売日であるせいか、食品売場は混んでいた。むしゃくしゃしていたので、私は必要以上に食料品をかごの中に放り込んだ。
 のり弁と、ザンギと、生ハムサラダと、チーズ。それから、安売りの白ワインも買った。 
 買い物袋を下げて歩いていると、土曜日のせいか親子連れとよくすれ違う。お父さんとお母さん。小さな子供がふたり。子供たちははしゃいで父や母の手を引っ張り、母は穏やかな声で子供に話しかけ、父は温かい目で家族を見つめている。典型的な幸せ家族の姿だ。
同じ家族構成だったのに、私のうちは幸せじゃなかった。
 私の名前は果南子というのだが、それはどうやら、父の当時の愛人の名前から付けられたものらしい。
 後でそのことを知った母は激怒して、それ以来私のことを名前では呼ばなくなった。もともと子供のことを、あまり好きな人ではなかったらしい。派手な化粧をして、毎日のようにどこかへでかけていた。
 私と二歳下の弟は、家に置き去りにされていた。昼ごはんは、テーブルの上に置いてある袋に入ったパンと牛乳を分けあって食べた。夕暮れ時は、だんだん闇に沈んでいく部屋の中が怖くて泣いた。しかし、同じように怖がって泣いている弟がすがりついてくるだけで、抱きしめたり、慰めてくれたりする大きな手や優しい声はなかった。
 母が帰ってくるのは、たいてい父の帰宅予定の一時間ぐらい前。面倒くさそうにテーブルに投げ出すおにぎりや出来合いの惣菜を、私と弟はむさぼるように食べた。母はにこりともせず、煙草を吸いながらテレビを見ていた。それでもよかった。母が帰ってくると、部屋は明るくなり、お腹もいっぱいになる。それだけで、よかった。
 父は母よりも私たちに無関心だった。「仕事が忙しい」という理由で、顔をあわせることはほとんどなかった。たぶん仕事のせいだけではなかったと思う。そして「カナコ」さんと別れたせいか、やはり私のことを名前で呼ぶことはなかった。
 やがて、私は泣かなくなった。部屋が暗ければ、電気をつければいい。寂しければ、テレビやビデオを見ればいい。食べ物は、近くのスーパーで買うことを覚えた。
 いつしか母が帰ってきても、もう湧き上がるような嬉しさは感じられなくなっていた。不機嫌な母に八つ当たりされないように、予想外に早く帰ってきた父との罵りあいの口げんかを聞かされる前に、私と弟は子供部屋に引っこんで眠ってしまうのが常だった。
 父は、八年前に他界した。癌だった。体調が悪くて病院にいったときには、既に手術も無理な状態だった。二ヶ月の入院の後に、逝った。
 私は泣かなかった。父の臨終に立ち会っていても、悲しみを感じることができなかった。親戚などの手前、大袈裟に嘆き悲しんでみせる母に対しても、何の感情も起こらなかった。
 母は、年をとった。子供の頃と同じく私のことは好きではないようだが、長男である弟のことは別らしい。弟が声変わりをした頃、母は気づいたのだ。弟がそれまでのピーピー泣くだけのうるさい子供ではなく、いつかは自分の生活を支えてくれる唯一の男になる可能性に。やがては嫁いで出ていくであろう女の私と違って。
 私には縁のなかった、家族団らん。
 でも、そんなモノ、欲しがっていたのかどうかも、もう忘れてしまった。今は、親に一喜一憂させられることのない大人になれたことだけが、うれしい。

 家に帰ると、ナナコがいた。
「もう、バイト終わったの?」
「ううん。夕方から、また行くの」
 ナナコは、ソファの背にもたれながら、のんびりと答えた。長い黒髪が、色白の肌を際立たせている。一重で切れ長の目の彼女は、和風の美人だった。
 テレビがついていて、再放送のバラエティ番組が乾いた笑いを部屋に振りまいていた。真剣に見ていたわけでもないらしい。ナナコは、リモコンでスイッチを切った。
「ゆうべは悪かったわね。また迷惑かけたみたいで」
 のり弁とワインとザンギとサラダとチーズを並べながら、私は礼を言った。
「別に。もう慣れっこ」
 やはりのんびり笑いながら、ナナコはワインのグラスを受け取った。泥酔して迷惑をかける私を責めることもせず、昼間からの酒につきあってくれる。ありがたいルームメイトである。
 私は、ナナコのことをほとんど知らない。仕事も、家族のことも、年齢も。
 それでも、私はナナコのことが好きだ。そばにいるとほっとできる、唯一の人間だ。飲み屋で酔い潰れていた私を介抱してくれたのがきっかけで、その日彼女はうちに泊まった。バイトを一つ首になって、家賃の払いに頭を痛めているという話を聞いて、私は即座に一緒に住もうと提案した。
 認めるのも癪だが、北嶋と別れたばかりで、かなり精神的に弱っていたのだと思う。それでも、彼女との気の置けない同居生活は、来てもすぐに帰ってしまう北嶋を待ちわびる生活よりは、気楽で心が落ち着く。
 ナナコは、ワイングラスを両手で支えるように持って、そっとすすっていた。私と違って、彼女は酒に強くない。
 それにひきかえ、私は水のようにワインを胃に流し込んでいた。せっかく買ってきたのり弁だが、ごはんをあまり食べる気になれず、おかずを少しつつくだけだった。迎え酒のつもりのワインだったのに、頭痛は朝よりもひどくなっている。
「果南ちゃん、よく、そんなに飲めるわねえ」
 ナナコは、にこにこしながら言った。
「……実は、さっきね」
 私は、ショッピングセンターで北嶋の娘に会ったことを、ナナコに話した。「刺せば」と挑発したことまで隠さずに。
「あらあら」
 ナナコはグラスをおいて、チーズをひとつ口の中に放り込んだ。
「果南ちゃんは、その子が羨ましかったんだもんねえ。つい、意地悪も言っちゃうわよね」
「何よ、それ」
 私は、上目遣いでナナコを睨んだ。
「だって、そうでしょ。果南ちゃんには、できなかったんだもん。お父さんの不倫をやめさせること」
「できなかったんじゃないわよ。そんなこと、しようとも思わなかったのよ。自分の思い通りにならないからって、手首を切るなんて馬鹿らしいじゃないの」
「でもねえ……」
 タイミング良く、電話が鳴った。この話を打ち切るきっかけができたので、私は喜んで受話器を取った。
「もしもし」
『果南子、俺』
 電話は、弟の貴史からだった。
 貴史は、昔から私のことを名前で呼び捨てにする。それでも私は、貴史のことを生意気だとは思わない。ずっと昔、私たちがまだ幼い頃、母が私の名前を呼んでくれないことが悲しくて、布団の中でこっそり泣いていたのを、貴史は知っているのだ。
「どうしたの。何か用?」
『うん。果南子さあ、明日ひま?』
「ひまだけど、何か?」
『うん……ちょっとつきあってもらえないかな。由佳と話し合うことになったんだけど、二人きりだとなんかやばい気がして。恵美は実家だし。あの人と一緒だと、余計ややこしくなりそうだし』
 あの人というのは、母のことだ。
「いいよ。ひまだし」
『ありがと。じゃ、明日の昼過ぎに行くから』
 用件だけ告げると、貴史はさっさと電話を切った。
 もっとも、貴史とはしばしば連絡を取り合っているので、今更長電話になるほどの話もない。



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